沖縄県沖縄市の“コザ”とは
沖縄市は沖縄本島中部に位置する、那覇市に次ぐ大きな街です。その沖縄市においてコザは、市の中心となるコザ十字路から胡屋~中の町あたりまでの商圏および文化圏を指す、いわゆる愛称です。県立コザ高校、コザ信金、コザ運動公園……地元の人々が口にする「コザ」の呼称は公共施設にも使われる共通認識に根差した地名ですが、現在の行政上の住所としては存在していない、あくまでも呼び名なのです。
そもそも「沖縄市」は、1974年にコザ市(1956-1974)と美里村の合併により誕生した名前ですが、「コザ」の呼称はそのもっと前、少なくとも戦中にはあったことがわかっています。諸説ありますが、米軍が本島上陸の際に描いた戦略地図に、越来村「胡屋(ごや)」や美里村「古謝(こじゃ)」を混乱したままKOZAと誤って記したことをきっかけに、一般の人々もやがて「コザ」と呼ぶようになった説が有力とされています。
こうした経緯に触れると、その呼び名からして、なんとも捻じれた沖縄とアメリカの関係を宿していることだろう……との思いを禁じ得ません。しかし、たかが呼び名、どんな由来があろうとコザはコザ。戦後、地域の人々はその名前に愛情を育み、この街を盛り立て、独自の文化を築いていったのです。
コザの歴史
- 琉球王朝時代
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中部の要地であった越来に王家が築城した、越来グスク(「ぎいくぐしく」)は、文献上では15世紀半ば頃から確認出来る。王家直轄の格式の高い城であり、琉球史における偉大な王、尚泰久王などが居城していたとされる。沖縄戦で破壊(現在、越来グスク跡として城前公園に)。
- 1945年03月
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沖縄戦が始まり、人口2万人の1/3相当約5,300人が犠牲となる。
- 戦後
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現在の嘉手納基地は、のどかな集落や畑だったにも関わらず、戦中日本軍により接収、戦後は米軍によって基地拡大と立退きを迫られていった。しかし同時に軍人を対象とする商業や娯楽文化も育ち、街は飛躍的発展を遂げる。50年代にはコザの人口の約6割が流入であったとされ基地経済を下支えした。人口は60年代に急増、本土復帰直前には6万人に迫った。
- 1956年06月
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越来村をコザ村に改称、7月に市へと昇格しコザ市が誕生。
- 1970年12月
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コザ暴動(コザ騒動)が発生。
コザ暴動1970年12月20日未明、ゲート通りや胡屋十字路の南側で、群衆約5,000人が米軍関係車約80台を焼き払った事件。住民を米兵の運転車がはねた交通事故が直接のきっかけとなったが、同年9月糸満女性轢死事件等、米統治下の人権蹂躙に対し、溜った市民の鬱憤が爆発したとされる。
- 1974年04月
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コザ市は美里村と合併、現在の沖縄市が誕生。
- ~現在
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「エイサーの街」「国際文化観光都市」「スポーツコンベンションシティ」「ミュージックタウン構想」をスローガンに、コザならではの沖縄チャンプルー文化を発信中。沖縄市は人口約14万人(2024年現在)、那覇市に次ぐ沖縄第2の都市に。
コザは音楽のメッカ
「抵抗するウチナーンチュ」の語りに何度も現れるのが、コザ暴動というシンボルである。(……中略……)私たち、特に日本やアメリカの国家権力に対して批判的な人びとは、この暴動をとてもロマンティックに語る。私たちはそこに、政治的な抵抗の、闘争の、あるいは「革命」の可能性さえ見出す。ここでは、もっともありふれた「優しく温かいウチナンチュ」にかわって、「怒れるウチナンチュ」が登場する。
— 岸 政彦・著『はじめての沖縄』(新曜社)より
社会学者の岸教授は上記引用文に続けて、怒れる沖縄は、内地のインテリ知識層によって、勝手に託された理想の姿だとしています。しかし局所的ではあっても、コザ暴動を生んだ怒りのエネルギーが同時代的なロックの衝動を呼び覚ましたことは事実。日本において、ロックが社会情勢とともにあったのは、このときの沖縄以外に存在しないのではないでしょうか。
本土復帰以後も、嘉手納基地がベトナム戦争、朝鮮戦争へと出兵する米軍の拠点であったため、コザの街では、明日には前線へと出向く極限状態のアメリカ兵相手に、日本人の若いロックミュージシャン達による、緊張感あるライブが毎夜繰り広げられていました。“紫”やコンディション・グリーンは、コザで誕生した沖縄を代表するロックバンドです(「コンディション・グリーン」とは、米軍による非常警戒態勢を示す合図で、コザ暴動のときにも発令)。コザ出身の照屋林賢率いる、りんけんバンドは、三線、島太鼓などの伝統楽器とジャズやロックのコンボを融合させた唯一無二の音楽スタイルで、1977年結成来現在まで、ロックスピリッツ溢れるライブ活動を続けています。
崔洋一監督の映画「Aサインデイズ」(1989年)では、60年代末期から本土復帰にかけての、“コザの青春”が赤裸々に描かれている
こうした豊かな音楽的土壌は、地元の小さなライブハウスや民謡酒場を介し、コザという街を音楽のメッカとして全国に轟かせています。2006年には市による「ミュージックタウン構想」が立ち上がり、核となる複合音楽施設「コザ・ミュージックタウン・音市場」もオープン、胡屋十字路のランドマークとなっています。
沖縄らしさを感じる、コザの魅力
那覇市と沖縄市の関係性は、内地と沖縄の在り方に似ているといわれます。那覇にも一歩路地に分け入れば沖縄らしいスポットはたくさんありますが、沖縄情緒を感じるためにわざわざ那覇の官庁街、ビジネス街に出掛ける人は少ないでしょう。ましてや国際通りのお土産屋さんをウィンドウショッピングしただけでは、沖縄経済の本質は理解出来ません。
商店街でお茶したり買い物するうち、コザに暮らす人々の普段着の声に触れることが出来るはず。気の置けない居酒屋で過ごせば、沖縄らしい温かな癒しを感じることもあるでしょう。宿はコザのど真ん中。ぜひコザの街に出掛けてみてください。
コザ運動公園、沖縄アリーナを有するコザでは、スポーツイベントも盛ん。また、1956年から続くエイサーまつりをはじめ、沖縄の郷土芸能の継承にも熱心な土地柄です。基地の街の異国情緒だけでなく、そうした沖縄ならではの空気を感じ取れるはず。土着とアメリカのチャンプルー文化……そんな一筋縄ではいかない沖縄の魅力が、ここコザにはあるのです!